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    May 31

    出会いはつねに絶景である

     
      本日昼ごろから夕方にかけては、日本のキリスト教系民間学校が戦前の北京に設けた、一風変わった女子校ーー北京生活学校創設70周年記念行事に参加。感動の真っただ中に身をおいていた記憶を記してからじゃないと、後ろ髪を引かれる思い。ふるって殴り書きして出かけることにする。

      1995年、北京で編集出版する政府系月刊誌『人民中国』に務めていたころ、仕事関係で偶然、日中両国の老婦人たちの再会シーンに立ち会った。半世紀前の北京で師弟関係にあった当時の娘たちが、タイムトンネルをくぐって互いに肩を抱き寄せ、手を握り合った。北京のおばあちゃんたちは片言の日本語を発し、手振り身振りで、思いを伝えようと務めるが、ときには相互に一方通行の会話が続く。おばあちゃんたちのグチャグチャな笑顔を眺めながら、涙がこぼれそうになった。思わず彼女たちの間に分け入り、通訳を買って出た。
      それ以降、断続的にこの集いにかかわりつづけた。通訳者とか、ボランテイアとかいう次元ではない。節目ふしめに、中国人卒業生と日本人指導者たちの交流に立ち会う回数が増えるにつれ、だんだんとこの不思議な友情の輪に溶け込んでいき、いつしか当事者に限りなく近いメンバーになっていた。おばあちゃんたちや周りで支えてくれる日本人関係者らと、たくさんの喜びや悲しみを分かち合った。ときには、生身の人間の集まりであるゆえ生じる葛藤に、悩んだり落ち込んだりしたこともあった。けど、60年の歳月がウソのように思える、国や民族を跨いだ深い絆には、通訳しながら涙むことが一度や二度ではなかった。
     
      おばあちゃんたちは全員がとうに80歳の峠を越え、生理的に急な下り坂にさしかかり、小さくなりつつある。けれど相変わらず、人として大きいと感じさせる。だれ一人例外なく、眼差しが温かく、笑顔が素敵だ。一点の陰りもない。おばあちゃんたちの輪の中にいるときは、人生の大先輩たちの愛情にふんわりと包まれている感じで、とても幸せだった。
     
      たぶん4、5年前、自由学園関係者や北京在住の日本人ガ立ち上げた読書会メンバーが相次ぎ日本に帰ると、おばあちゃんたちの集会が平日に設定されることが多く、私もいつしか足が遠くなっていった。日本の関係者の訪中がきっかけで、ようやくばあちゃんたちの顔を拝見するが、ひさしぶりに会うと、「○○さんが亡くなったんだ」といわれ、心を痛めた。仕事や家族のことに没頭して、より大きく、大切なものを見失っているのではなかったか、と思うと、申し訳なさでいっぱいである。何より、おばあちゃんたち一人ひとりとの出会いを書き留める作業を怠ったことは、悔やんでも悔やみきれない。
      
      こういった反省に身をつまされる思いをしている矢先に、今回の記念行事のため日本から駆けつけた元職場の恩師H先生の下記のあいさつ文と出会った。  
      日中日中の娘たちの、お互いにとっても最も不幸だった時代に遡る出会いを振り返るH先生の手短なあいさつに、会場は感動に包まれていた。通訳用にと渡していただいた文を以下に、掲載する。
      (無断転載を許してください)
     
                 ※             ※            ※  
        ーーHでございます。

      せっかくご指名にあずかりましたので、僭越ながら乾杯の音頭をとらせていただきます。

       

      つい先ほど日本を訪問された中国の胡錦濤国家主席は、早稲田大学での講演で、こんなことをおっしゃいました。

      「歳月は人びとの姿を変えることはできるが、友情を変えることはできない」。

      私はこのお言葉を、いまここで改めて噛みしめております。

      

      自由学園北京生活学校的同学們,Nimen hao ! 

      あなたがたの元気なお姿を久しぶりに拝見して、私たちは心からうれしく思っています。

      ちょうど70年前の19385月。日本は中国への侵略戦争をますます拡大していました。そんな不幸な状況の中で、ある出会いが生じます。「自由学園北京生活学校」です。中国人は小学校を卒業したばかりの少女20人、日本人は20歳をいくつか出たばかりの若い女性たち数人でした。

      彼女らは、「共に言葉を学ぶ」(共同学習生活)/「共に生活を学ぶ」(共同学習両国語言)/「共に技術を学ぶ」(共同学習技術)/という三つの目標を掲げ、寝食をともにしました。

      女子教育がなおざりにされていた時代にあって、これは画期的なことでありました。しかし、言語、生活、習慣、大きく言えば文化の違い。たった一つのことを理解しあうのに、1時間はおろか2時間かかったこともあったと聞きます。その大きな壁を乗り越えようと、彼女らは若い情熱を傾け、たゆまぬ努力を続けました。そうした情景を思い浮かべるとき、私は深い感動を覚えずにはいられません。
     

      「出会いは、つねに絶景である」と、これは日本のある詩人の言葉であります。

      日本の敗戦、中国から言えば抗日戦争の勝利、その日まで続いた北京生活学校という出会いは、正にその絶景の日々でありました。そして、今日またここに私たちは出会いました。私たちはふたたび、絶景の中に身をおいています。

     

      この絶景を祝い、生活学校卒業生のみなさんのいっそうのご健康を祈り、生活学校というすばらしい事業に甚大な努力を傾注してこられた自由学園のいっそうの発展を祈って、ここに喜びの杯をかわそうではありませんか。   乾杯!  

     
                ※        ※        ※
      

      北京生活学校関係者と知り合って、はや13年間。

      交流の輪に入って日中の関係者の気持ちの伝達役を務めたりする私に、おばあちゃんたちはたっぷりと愛情を注ぎつづけた。仕事や子育てでズタズタになっていた時期に、大勢の方が親身になって心配してくださり、智慧を授けたり、励ましの言葉をかけてくださった。    

      一滴の水にも及ばないささやかな好意に、迸る泉にも喩えられる褒賞を常に心がけられたみなさん。そのせいなんだろうか、一見、全員が年齢不相応に若々しく、生き生きしておられるよう。会うたびに、こっちが元気をもらっちゃう。

      

       だが、本日の集会でも、2名の方が相次ぎ他界されたと聞かされた。私がもっとも慕っている宋大姉(88歳)が、だいぶ弱っているご様子だった。行事が開きになった後、しばらく宋大姉の近くで、その痩せ細った手を握り続け、みんなで彼女を囲んで記念写真をとった。それから日本からいらしたTさんと車いすを押して、ホテル玄関まで彼女を見送った。とても、軽かった。

      別れ際、宋大姉がふと、不思議に黒い瞳を輝かせながら、言った。「出張からは、いつ帰るんだ。帰ったら、うちにおいでな」。

      

       時は待ってくれない。なすべきことは、急がねばならない。

       宋大姉~~、いってまいります。      

         

    May 23

    大震災の衝撃から立ち直って

     

    519日午後228分。北京市内ではクラックションが一斉に鳴らされ、車や通行人も立ち止まって震災犠牲者に黙祷を捧げた。天安門広場はじめ各所に半旗が掲げられ、新聞やウェブサイトの表紙が悲哀の黒一色に塗られた。

    オフィスの一角で手を合わせる3分間、瓦礫に敷かれて苦しみながらこと絶えていった数万もの命を思って、悲しみがこみ上げる。国家の名における追悼によって、犠牲者や遺族が救われるとは思わない。が、この瞬間に、胸中の悲哀の塊が少しずつ溶け出すような気がした。

     

    ◇一週間前、オフィスビル5階の事務所で突然の目眩に襲われて、地震発生を知った。震源は2000キロ近く離れた四川省成都付近、マグニチュード7.8。この速報に唐山大震災(1976年、震度同上、死者24万人)の記憶が蘇った。小学生のころ、私の生まれ育った東北の町にも唐山の負傷者が大勢送り込まれ、手足に包帯を巻いた姿の人たちが街に溢れていた……。

    震災第一報の死亡者数は107人、だが数時間後には一気に8000人に上昇した。修正震度8、阪神大震災の20倍以上の強震による犠牲者数はその後どんどん膨らみつづけ、21日の時点では失踪者を含め7万人に迫る勢いだ。

     

    CCTVがリアルタイムで報じる映像は、廃墟と化した町、無造作に包まれて並ぶ死体、きびしい救援作業、絶えぬ余震と雨、土砂崩れ、寸断された交通、決壊寸前のダムなど、ハリウッド映画の災難シーンさながらの光景だ。多くの小中学校生徒の死亡は何より痛ましい。瓦礫の山から覗く葉タバコ程度の太さの鉄筋から推察するに、僻地の校舎に耐震強度などあったものでない。また、インフラの脆弱な山奥の町が、クリティカル・ポイントとされる72時間前後まで音信普通の陸の孤島であり続けた。険しい地形、余震、悪天候が救援ヘリの着陸を不可能にした。咽るTVキャスターは、想像を絶する震災に不意打ちされ悲嘆に明け暮れた多くの国民の姿そのものだった。行き場のない悲しみはやがて「何かしないと居たたまれない」気持ちになり、市民らの自発的な行動が相次いだ。

     

    ◇その一つが献血だ。中国人は、献血後に気力が衰えるなどの理由で献血を嫌う傾向が強く、義務献血が定着していない。ノルマを与えられた機関団体などでは、200㏄の献血をする人に対し、1000元前後の栄養手当てを支給するなどして希望者を募るも、なかなか手を挙げる人がいない。それだけに震災直後の成都市の街頭で市民が無償献血車の前に行列している映像に、中国の人々はじーんときたはずだ。その後、北京でも献血希望者が血液センターに殺到。当事務所の中国人職員が土曜15日の昼過ぎ、王府井歩行街にある献血車で申し込もうとしたところ、当日の募集枠は9時前にいっぱいになり、募集は締め切られていた。「大災有大愛」(大災難のなかで偉大な愛がうまれる)という。災難が民族の気質をも変えている実感した。

     

    ◇市民の寄付熱も空前のものだった。「公益」「分かち合い」の文化は中国社会にまだ浸透してない。だが震災の甚大な被害を目前にして、企業家、有名人から一般市民に至る夥しい人たちが、救援と再建の一助にと、最大限の寄付を行っている。

    チャリティショー現場で計1億元(1元は15円)以上を寄付した唐山震災遺児出身の企業家は、国民の感動を呼んだ。いち早く1000万元を寄付したジャッキーチェンなどにも敬意が払われた。他方、一部の有名人の寄付額が知名度や高額のギャラに比例しないことを非難し、「弱者の痛みに無関心で社会責任を自覚しない企業家・芸能人をリストアップしボイコットすべきだ」との声も聞こえた。寄付額の多寡にこだわるのは寄付の本旨から逸れる。だが死傷・疫病・困苦に怯える震災地獄と花形職種の派手な世界とのギャップに平静でいられない気持ちもわかる。

    私の友人や近隣所を例に挙げると、カンパをしない者は一人としていなかった。寄付先は職場、地域、赤十字など団体に分かれるが、寄付額は、月給の10分の1程度を妥当と考える人が多く、被害拡大とともに追加で一口1000元以上の寄付をした人が何人もいた。なお、5億人に上る携帯ユーザーの多くが、ショートメッセージによる赤十字会への2元、6元単位の引き落としに加わった。

    ちなみに、内外からの義捐金総額は、震災死亡者数の推移とともに、13日の2億元余から15億、34億、89億元へと雪だるま式に大きくなって、21日現在は振込みベースで126億元。中央財政からの拠出金をやや上回っている。

     

    ◇この度の震災で、多くの孤児が生まれた。CCTVでは、両親を失ったショックから食べも笑いもしない児童を写す映像の下端に、養子縁組申込み窓口電話の字幕を入れて流した。北京の地元誌も16日付けで「30歳以上、経済面、教育面で支援する能力を有し、健康である夫婦なら可」という条件と連絡先を公布した。翌日の会合で、友人が「女の子を一人引き取る」と打ち明けたので内心おどろいた。「一晩じゅう話し合って決めた。息子も異議ない。わが娘として育て、教育を受けさせたい」という。友人本人は大学の教師、夫は公務員、息子は今年中学に上がる。彼女はこの日、会合中にも折を見て電話をかけ続けていたが、回線がずっとビジー状態だった。「養子縁組申込み、1万件以上殺到」ーーこのニュースを翌日にインターネットで読んで、前日の状況を理解した。友人夫婦と震災孤児の養子縁組が成功したら、女の子を欲しがりながら一人っ子政策の制限で諦めていた彼らはきっと養女を可愛がり、大切に育てるに違いない。震災後はじめて、心温まる思いである。

     

    ◇今回、震災情報を追いながら、励まされたことがいろいろあった。

     

    ア、中国の国営メディアの対応が、まずまず満足できるものであった。

    とくに震災発生初期、国営CCTVはいち早く現場入りして、24時間体制でリアルな被災報道を全国に届けた。温家宝総理の現地入りや軍の救援作業をクローズアップして士気鼓舞を図りながらも、敢えて深刻な被害事実と途方に暮れる庶民の涙を、画面から排除せずそのまま伝えてくれた。巨大災害により引き起こされかねない恐慌を恐れず、死傷者情報、交通インフラ網寸断などゆゆしい困難を視聴者と共有しようしているように見受けられた。こうした情報開示が、全国民と世界じゅうの人びとの心を動かし、震災支援の機運の高揚に結びついたのでは思う。多くの国外のメディアも被災現場に入って生情報の発信しているようだった。2003SARS事件の時、国営メディアの対応の遅れと情報隠蔽が恐慌を広めた教訓が生かされていると感じた。

     

    イ、国際社会がいろんな形で支援の手を差し伸べ、中国が感謝を込めて受け入れたことも、印象的だ。

    とくに日本国際緊急救援隊の奮闘ぶりはCCTVでも取り上げられ、好意的な書き込みがインターネット上で目立った。昨年当事務所主催のセミナーを共催していただいた成都市政府関係者からも、「彼ら(日本救援隊)は最善を尽くした。亡くなった生命に敬礼をするシーンにはみんなが感動した。生存者を見つけられなかったのは、運が悪かっただけだ」との肉声が寄せられた。

    なお震災直後、当事務所は四川省人民政府と成都市政府にそれぞれ見舞い状と義捐金を送付した。いずれも丁重に受け入れられ、日中地域交流強化への期待が表明されたことをここに書き添える。

     

    ウ、ボランティアの登場、市民力は震災克服の原動力になれるか。

     

    震災初期は、被災現場への交通が寸断され、余震が続くなど受入条件が劣悪だったので、被災地への出入りに制限がかかっている中、特技をもつ一部のボランティアが装備をもって被災地入りして、人命救助、死体引取り、救援物資の搬送、消毒防疫作業などに加わった。熱い思い一つで現場入りしたが怪我したりして保護されるボランティアも続出。そのため北京の主要NGO団体は活動を献血、募金に絞ってむやみな移動を自制し、メールニュース(例えば「民間公益震災特刊」)を編集して、ボランティアマニュアル、救助知識、現地ニーズ、被災地NPO情報等を配信した。

    震災一週後、多くの地元市民がボランティアとして捜索活動のサポート、炊事の提供、消毒・介護などに当たる姿がたくさん報道された。政府は目下、負傷者を運び出し、被災住民向けに500g食料+10元/日の手当てを、身寄りのない者には月600元の生活費を支給すると決め、震災復旧に全力で組んでいる。だが、政府の手に負えない部分もたくさんでてきている。震災復旧物資の搬送、広大な地域に分布している500万世帯の被災民への食料や医薬品の補給、けが人や病人の介護、心的外傷を負った人たちのメンタルケアなどが、市民ボランティア・NPOの活躍の場になっている。おおまかな統計だと、20日時点で5万3600人以上のボランティアが活動しているという。

    大災難がきっかけとなって、真のボランティア精神が中国に根付き、全社会が力を合わせて震災を克服していくことを願ってやまない。

     

    May 20

    今天,悲痛的人无须忍住悲痛 (转贴)

      

        置身北京20年,第一次看见天安门广场上的国旗为百姓的受难黯然垂下;第一次看见红旗永飘似的党报红彤彤的刊头题字,选择了沉重的悲哀的颜色。这个国家终于能为普普通通的生命的陨落举丧了。

     

        国民哀悼日,响彻长安街的汽笛喇叭的长鸣中,市民的眼泪在汩汩流淌,我的也汇入其中,为无比的伤痛同时也为了希望。

        一周以来无以描述的痛,第一次找到了决堤般的表达。心,始归平静。

       

        今偶从网上读到下篇文章,怦然心动。

        转贴在此与朋友们分享。     

     

      [转贴]  今天,悲痛的人无须忍住悲痛

                                   http://msn.ynet.com/view.jsp?oid=40547609    

     

    些天有多少人流了多少泪?我们这些千里之外的人,除了捐献血,看新流眼泪,能做的事或不多,但我心里真的很悲痛,这种悲痛需要表达,在没有渠道可表达,我迫自己不睡,为远方苦中的人守夜。

     

    灾区之外的人尚如此,灾区之中的人心情可想而知。在学校停放遇学生尸体的操上不响起鞭炮声,在的人知道,是死遗亲亡灵送行。一位男子把遇妻子的尸体在自己背上,摩托车带她去城火化,要妻子一个死的尊。在体掩埋现场负责维护墓地秩序的空降兵李武被受到阻的十小姑娘狠咬了一口胳膊,士任由她宣泄,他:“只要我的痛,能减她的一点痛,那就她咬吧!”

     

    悲痛的理,或选择遗忘和麻木,或充分表达。前者看似定,但抑会来心理异、消沉和某不可控。后者看似加悲情渲染,但充分的表达之后,往往神奇地帮助人走出悲痛,并从悲痛之中萌大的精神力量来面未来的生活。

     

    不要悲痛的人忍住悲痛。请让表达,请给表达予以容。甚至要更超然些,像那位士面失控的小姑娘一解他们纵情的宣泄。当遇遗亲要用他式埋葬他请给予适当的尊重。因若悲痛得不到充分表达,很多人将无法面以后的人生与自己的灵魂。

     

    灾区之外的人亦是如此。他的悲痛也需要表达。在有很多声音要求降半旗在国家面上表达者的哀痛,要求立哀悼日追思逝者。有些务实的人认为类举动并没有在实质上有助于救灾,甚至认为是一添乱。是因智慧的局限无法理解悲情表达的意,更看不到悲情充分表达之后力量萌生的神奇世界。


      面一片墟,面对这式的惨,我的未来将充满艰辛,我急需要一种强大的精神力量以助前行,生活下去。我的未来是更有力是更忧伤、消沉,将取决于悲痛的理方式——我们举光哀悼、各追思会、要求下半旗、立国家哀悼日,就是祈望看彼此上的悲容与眼中的泪水,确彼此的感同身受,然后从悲痛中找生命的力量,继续前行。所以,请让请让们烛光守夜,请让表达,国旗降半,请给个共同日子我一起哀思

                                             (作者:范大中

     

    February 27

    米NY・フィルハーモニック、北朝鮮で公演

     
     昨26日夜10時NHKジャーナルが報じた米NYフィルのピョンヤン公演ニュースは、まさに、寝耳に水です!
     地殻変動が始まろうとする、氷河のひび割れのうめきのようなものが聞こえてくるようで、鳥肌立つ(?)というか、不思議な胸騒ぎがしました……。
     
     何かの前触れがあったかどうか。
     ニュースキャスターやコメンテーターの戸惑いは、理解して余りありです。生身の日本国民としての受け止め方そのものでしょうから。六カ国協議の場で、拉致問題の糸口が見つからずじまいである現段階では、失礼な言い方かもしれませんが、日本にとっては、頼りにしている保護者が、まだ喧嘩の最中の敵側に、ラブコールを送っているようなものなのでしょうか。
     
     ある時期から日常的に日中韓3カ国語をしゃべり流していながらも、東アジアなんてろくなことが期待できないと、いくぶん、投げやりになって、淡々とやり過ごしてきました。日中、日韓だけでも、十分ややこしい。なのに、中国に生を受けながら朝鮮半島の過去や未来が気がかりである、日中韓というより、北朝鮮を含む北東アジアの出来事に触れるにあたり、抗いようもなく、感情に波が生じてしまう自分をもてあましていたワケです、、。 
     
     ということもあり、いきなり、かつて私も心を躍らされた「新大陸から」がピョンヤンで鳴り響いたと知り、しかも、NYフィルによって演奏されたアリランに、北朝鮮の観客から拍手の嵐を巻き起こるのを、電波を通じてとはいえ、この耳で聞いたとき、どんよりとした閉鎖空間に、ざっと外気が流れ込まれている感ありました。
     
     世の中面白いじゃん。さあ元気だそう、とでもいう勢いで、仕事の合間を縫ってひとまずこのメモをアップし、日中韓メディアの反響をチェックすることとしましょう。
      
    February 19

    镜头的眼

     
       去年底开始,迷上了拍照,走哪儿相机不离身。
     
       那天老同事聚会,见我异乎寻常的拍摄兴致,T兄问道:“是不是刚买的相机啊”。
       数码相机更新换代多少茬了,不至于才摸着。不过,这台沉甸甸的SONY公司cybershot DSC-T30,堪称本人迄今之最爱。对摆弄多少年专业设备的诸位先达来说或许是早已毕业的小儿科,可我这初学者兴致正浓,时时感叹镜头的眼竟是一步一个景寓意常新,已迟到的上班路上还要掏出相机对准朝阳下的通汇河横竖比划。
     
      镜头的眼,像是感官的延伸,又好似造化附体,定格的瞬间似真似幻让人喜出望外,忽然觉得连这吃喝拉撒的百姓日常也陡然间变得有品有味。说来在眼皮底下周而复始永无休止的真实影像实在让人类有些审美疲劳,相比之下无机恒定的摄像镜头那视角、解构、隐语,总能带给人没有鼓噪的视觉和心灵享受。
     
      俺这些日子的拙作,大家想必已见识过了,舍得成为被写体的朋友,我会再接再厉拍得更好;或坚决或犹疑,拒绝镜的家伙们,在此提请解放思想予以配合为盼哦!
     
       2008,镜头的眼会捕捉些什么?满心期待。
     
      
    January 31

    1月日本之行(照片)

       一月中旬起在日本不是工作而是度假。
        十天里,做了三件事:会友叙旧、泡温泉、最后一天泡书店。
     
         眼下回到北京的日常里奔忙着,不经意间面带微笑。
        这段日子里日本的人和自然给身心带来的治愈、感动,大概够我回味这一年,能让我在现在的位置高高兴兴奔忙一阵子。   
     
          见到的人,去过的地方,已零零星星向朋友们汇报过了。
          有人说:应该跟大家分享日本带给我们这些人的感动和启示。
          有人说:你早该写出点像样的文字了,比如“我认识的日本人”。
          是啊是啊我一定。
     
          现在先上传一批照片供大家分享。  
        
         
    January 17

    日本便り(山梨)

     
    明日18日まで、90年代から縁の深い山梨県でのんびりする予定。
    八カ岳の友人(先生)宅から、この初便りを出します。
     
    1月12日、3時間も遅れて、午後5時前に成田着。くたびれ果ての、入管における指紋押印+写真撮影には、まいっちゃっいましたね。係員の態度や語気に、つい難癖をつけちゃいました。「あなた様にも、こんど、同じやうなことをやっていただきましょう」と、極力、正確な日本語で、厭味をいわないと虫が治まらない私って、日本人には、マジでヤーなヤツといわれそうですね。
    申し訳ないけど、あの指紋押印は、最低!!!はらわたが煮えたぎり、ない恨みが、生じちゃいそうな…。二度とやりたくないっすね…。
     
    しかしその後、都内において、杯を傾けながら深夜まで志を同じくする日本人を含む友人らと腹を割って語らった2泊1日は、信頼と友情に国籍なしの理を改めて思い知らされる日々で、どうやら入管での恨みを忘れることができました。
     
    14日、昼前に人中OBと目白で合流。尊敬してやまない元職場の日本人恩師らとの、箱根一泊旅行に発ちました。くしくも外傷と運動障害に効くといわれる温泉に、とっぷりと、浸かりました。露天ですから、外気に触れいくらでも楽しめました。バイキングの和食がおいしかったことも、書き添えましょう。翌日も、朝の温泉入浴後、恩師ご夫婦とスイッチバックの登山鉄道やロープウェイから初冠雪の富士外輪山にわくわくしながら、しみじみと昔を思い出す時間をもったのでした。感想は、「ハッピー」の一言に尽きます。
    この私って、もう、歳なんだろうか…。
     
    15日以降は、富士山と北岳、甲斐駒ケ岳が一望の下にある八ガ岳南麓で、のんびりと過ごしています。旧知を訪ね、友情を温めたり、温泉に入ったり。。。本日は、長野県と岐阜県の境にある白骨温泉に行ってきました!白濁とした湯が効きそうな温泉もすごくよかったけど、沿路の高原地帯のパノラマ風景は、壮絶そのもの。もともと山好きということもあり、中部山脈のあの壮大なスケールには魅了され、いつか、必ずあの高みに望んでみたい!と、強く思ったのです
     
    精進湖、本栖湖から眺めた富士山や、吹雪の中での乗鞍の露天温泉など、我が意を得た写真は、北京に戻ってから、おいおいアップしますからね
     
    明日の午後以降は、泊りで熱海の温泉に行く予定だけど、足のねん挫後遺症は、気のせいか、もはや快方に向かいつつあるって感じ。北京にもどったころは、すっかり全快しているかもねぇ。
     
    以下は、各自に伝言です。
     
    ◎人中OB皆の衆ーー寄せ書きのお葉書、お伝えしましたぞ!
    ◎CHQIANへ--長野に送付済みだよ(FEIFEIはいまいずこ?)
    ◎LYへ ーー明日の午後、竜村仁事務所に行くアポを入れたぞ。会って、「地球交響曲」6番を購入予定。スタッフじゃなく、監督ご本人が、時間くつくってくれるかどうかは不明。どきどき中っす。
    ◎北方人、非雪ーーなんだか、まだ声を聞かせるという約束を果たせず、ごめんなさい。明日以降はフラットにふるまえる友人との旅なんで、まずはテレフォンカードを入手しますね。
     
    ほんじゃ、またお便りするで。
     
     
    January 07

    北方人へ:注文あり・・・ 

     
      あけまして、おめでとうございます
     
      初詣の写真、みましたみました
      雪をかぶった狛犬と、澄んで湧き水に浮かぶ紙船(賽銭)と大きな波紋……
      すがすがしい北方のお正月を、こちらも裾分けしてもらった気分です
      Tってこんな冴えた感性してるヤツだとは知らなかったなぁ、失敬失敬
      これじゃ女の子が惚れないワケないやろと、はや心配する人がいたりして?
     
      <また訪ねていきたいです…>と投書するつもりでしたが
      登録にトライして何度も失敗……!
      日本国民の正式IDがないと、無理かしら (脹れ面マーク
     
      そこで以下の通り、新年のプレゼントを請求します
      --品   物:○○のIDとパスワード入りの封筒
       --受取期限:2008年1月11日(12日-22日は東京&山梨です
     
      仲間入りを楽しみにしながら、
      北方人に幸せあれと北京でお祈りします   
     
     
    January 06

    [转贴] 致女儿的励志名言(亦白)

     
         有人从《示女十八生日书》找到我的匿名空间,突然没了安全感。不用新浪实名注册的博客,就是要隐身到底,誓不进入公共的话语空间。不料,不经意间披露的信息招致现形,想象私语公诸于众,有些难堪。这个博客怎么个写法呢?
        
         今天带着几许困惑试着输入标题搜索,却被一位转载者的博客吸引。
          这位老爸对远在海外的女儿说的话,语重心长、句句温暖。
         相比之下我们的方式则有些天马行空,用心亦少了这份细腻和实在
         这位父亲有同样精彩的励志名言,其价值观正是我激赏的,转贴在此。或可叫有来有往?
         
         ----------------------------------------------------------------------

        1、生活中若没有朋友就象生活中没有阳光一样。

        2、生活若剥去了理想、梦想、幻想,生命便只是一具行尸走肉。

        3、贪婪是最真实的贫穷,满足是最真实的财富。

        4、真正的爱应该超越生命的长度、心灵的宽度、灵魂的深度。

        5、不论你在什么时候开始,重要的是开始之后就不要停止;不论你在什么时候结束,关健是结束之后就不要悔恨。

        6、美好的生命应该充满期待、惊喜和感激。

        7、第一个青春是上帝给你的,第二个青春是靠自己努力得来的。

         8、人只要不失去方向就不会失去自己;如果你曾歌颂黎明,那么也请你拥抱黑夜。

         9、理想的路总为有信心的人预备着。    

        10、如果你想拥有完美无暇的友谊,可能会一辈子找不到朋友。

        11、你不能转变天气但你能改变你的心情。

        12、人生最重要的不是站的位置而是你所朝的方向。

        13、人之所以痛苦在于追求错误的东西。

        14、逆境是生命必经的过程,能勇于接受逆境的人生命才能茁壮。

        15、世界会象那些有目标和远见的人让路。

        16、积极思考造就积极人生,反之则造成消极人生。

        17、即使是不成熟的尝试也胜过纸上谈兵。

        18、伟人之所以看起来伟大是因为我们自己跪着。

        19、可少说一句笑话,不愿失去一位朋友。

        20、良好的开端等于成功了一半---有时行动胜过一切。

     

    January 05

    城里人的童话 --小江

       

         文,即纹。用文字描述的真实,即使再真诚,也是虚虚实实有真有假。真实与文字无关。这是刚送别不识字的小时工小江后浮现在脑海的想法。
         
         小江,安徽和县人,3年多前经同事zc介绍来我家干小时工。每周来一次,一次干半天,一干到现在。小江今年三十九岁,老公在京打工,儿子在老家上初中。按说是中年人了,可她那甜甜的嗓音和稚气的圆脸,怎么说都比实际年龄小了十岁。
     
         小江一般是早上到我家来,我们上班她一人收拾家,干完了撞门走人,三年多如一日。不用吩咐,也不管旁边有人没人,小江自顾按部就班清理一周污染,干活儿细致彻底,无论橱柜还是床底没有死角。偶尔在一旁看她干活,不紧不慢节奏恒定,举手投足悠然自得,一边干活一边有问有答,面带愉悦的微笑,决不会想到她日日是与怎样的杂乱和脏污打交道。
     
        最初听说小江不识字时,觉得不可思议:随处可见的路标、站牌是外乡人不致迷失于汪洋北京的唯一依靠,这瞪眼瞎要吃多少苦头啊。
        据说在同事家干活时,小夫妻俩临时有事出门,联系不到小江只好往门上贴了“有事外出请明天再来”的留言条走了。结果,小江伫立门外苦等几个小时……。
       
        可实际上,小江每天从北到南自如地穿行北京城,步履轻盈走进等候她那双巧手的一个个家庭,文字难不倒她。我家里那堆花花绿绿的洗衣液、柔软剂、消毒液、人和宠物的洗发香波,还有洗衣机上的大小按钮等等她都作为图案识别辨认,操作熟练。看她游刃有余地使用这些高科技产品,谁能想到她是一个文盲呢。
     
        工作的目的是挣钱,小江也不例外,可她经常叫着真儿往外推钱。
       逢着雨雪天气或者延长工时,追加些打车费或工酬属情理之中,她却以腕力坚辞到底。“说好多少钱就是多少,耽误一会儿时间能当啥。你待我好,算我帮忙不行吗”。她的坦诚直视,让我不好意思再坚持
     
        不属于自己的财,她小江一分不贪。
        下班回家进门,经常看见她把洗衣服时从服兜里掏出的钱币一张张弄平整了,仔细地压在玻璃餐桌上。这三年间,她在我家“捡到"的东西论金钱怕是数千了吧。小自月余不见的项坠、戒指、存储卡起,大到搁置后找不到了的数码相机、失踪已久的某件衣物,几乎无所不包
        有一阵子,我的项坠儿不见了,我曾叮嘱小江:“你一定要找到啊。上面的镶钻是真的,抵我半月工资呢!”白天说起此事朋友打赌我再也不会看到那项坠了。晚上推门一看,项坠儿在中厅的茶几上灿然发光。
           
         小江的儿子今年中考,小江要回老家专心伺候儿子,今天是她最后一次来我家工作。早晨起床,我就开始盘算该准备什么送别礼物。
         这三年多来,室内清洁、定期换洗床单窗帘、整理衣橱等等家务完全依赖小江,日子久了她快成了我的管家,找不见某样东西,情急之下总会拨打她手机询问。小江在生活上心理上给我提供的支撑,无法用金钱估量。如今分别在即,若不以金钱物质相赠,这份感激总不能用一过性的微笑和拥抱表达吧?
     
        老公上班前从厨柜里拿出些烟酒茶和山珍走了,我呢几番思量后准备了一些衣物和一千元人民币。
        递去之前怕她又犯老毛病,先来了一段开场白:“企业现在也都是13个月工资,你在我家干了3年半,啥社保也没上……”,然后试图迅速把钱塞到她的口袋里。可说时迟那时快,小江一把将我的手推开。几番推搡后,我以“总得收下一半吧”的话术,终于把500元放到她手上!
       
         晚上,她打电话向爱人请假,跟我共进晚餐,我替她斟上半杯红酒。第一次,她讲起家乡、往事、儿子的将来和犹豫中的新房,她的无忧无忧让我松一口气。啊啊,甚至谈起用暴力从此永远把她推到小学门外的老师,她也是甜甜地笑着。她的词典里从来没有怨恨,瞻前顾后的忧虑与她无缘。她快乐,因为她没那些奢望。她有随时想回去的老家。
     
         三年多来,我们一直管她叫“小江”,不知名字叫啥。记得有一次曾问过ZC她竟不知道,而这时我们很熟了,问本人名字有点怪怪的,也就小江小江的叫着。今天要分手了拿出纸笔正式询问方知---
         小江全名叫“江-贤-梅”,家人朋友都叫她“小梅”! 
             
          小梅,我们会永远记住你,你是我心中的童话……。      
     
        
    January 02

    传说中的2008,衷心的祝愿

     
         传说中的2008,终于来了。
     
        我的2008年1月1日,用来举家重温传统友谊。
        三家八人聚餐,仅一高考生缺席。又不是什么大年节的,纯是为了想聚而聚,这就够齐整的了。结果又有老大一家傍晚加入进来,句号画得更加圆满。
     
        现今这家家生活好起来了,房子变宽敞舒适了,孩子们长大各有各的世界了,惟有〈西三旗共同体〉其乐融融的亲情气氛依然不变。每每聚会,都是几个男士下厨掌勺,女士们打杂攀谈,孩子们在不远处有说有笑。茶几方桌到处都是成堆的水果和零食,像溢满这个空间的愉悦和快乐。
        这天,男士们近两小时的奋战后,好友夫妻清早赶集买来的琳琅满目的海鲜如数摆上餐桌。那份量,就像我们近20年的患难之交,沉甸甸的。我在心里祝福这些情同手足的朋友以及这个大家庭的可爱的后代们……。
     
        2008,曾经是未来的代名词。
     
        还在《人民中国》供职的2000年,当时上小学的Tree送给一位经常做玩伴的年轻日本同事的离职礼物是题为《2008的约定》(大意)的4点漫画。第一幅是摇手道Baybay的一小孩和生机盎然的一棵“葱头”--后者是她命名并称呼的该日本同事的绰号。第二幅,画面转到2008(稚气的标语式的大字),背着时尚的双肩背的优雅少女在等人,后下方出现了布满皱纹的瘪“葱头”,在做寻寻觅觅状。第三幅:女孩依然翘首张望着迈步前行。“葱头”就在眼皮底下,却是相见不相识:因为“葱头”实在老得不象样了!第四幅:女孩的运动鞋无情地踩向“葱头”,虚线框里是脸上留下大鞋印的变得像照片一样扁平了的“葱头”。 
        在十岁多的Tree的眼里,2008一定是无限遥远的未来吧。道听途说岁月催人老的道理的小家伙,毫不犹豫把眼前英姿风发的LW叔叔摧残成垂暮老头,对悲情抗议的“葱头”同情不已。
     
        今天我们终于站在了那个曾经觉得遥不可及的未来的门槛上。
     
        曾几何时,喜欢恶作剧的Tree已然是敏感内向的大一学生,不再为2008或者奥运的符号热血沸腾,对满眼满世界的繁华时而冒出“毋宁不幸福”之类的反人类言论,沉醉于好似还残留着中世纪工匠体温和纹理的传统艺术和文化中。她正把触须伸向大千世界的边边角角。依我旁观,她的读书吞吐量堪与其青春期的新陈代谢媲美,床边案头堆满五花八门的书几天不清理要泛滥成灾。
     
        那位相约2008的“葱头”.也远没退化为头昏眼花的糟老头。
        离开中国后他加入日本主流媒体,一步一个脚印扎扎实实“跑”新闻,从地方“跑”到东京本社直至成为派驻国外的外信记者。今年夏天他是否会现身于A社在北京的中国总局尚不得而知,但是与北京以及2008的距离确实是富有戏剧性地缩短这是事实。去年据说是在北核六方会谈的采访空隙跑出来匆匆谋过一面,驾驭熟练中文的“葱头”俨然是久经沙场的战士啦……。 
      岁月带走了很多东西,也给每个人留下沉甸甸的礼物。
         
         2008的第一天,虽说在中国还只是个公休日,即将翻开崭新的一页日历的感受还是不同寻常。
         回首过往,有遗憾,但更多的还是欣慰和怀恋。对身边的亲人和朋友们充满感激和美好的祝愿:
      
         愿好朋友们幸福和谐的家庭续写往日温馨故事,继续成为大家的心灵后方;
         愿不慕浮华勤于思考敏于感受的朋友们有更多的感悟和快乐,你们是我的另一块精神家园;
         愿事业上孜孜以求勇攀高峰的畏友们离理想再近一点。你们是一面镜子,激励时不时想停下脚步的我继续前行;
         愿不安现状挑战自我的可敬的小友们心想事成,你们的勇气也给我注入极大活力;
         在这里,我还要真心祈祷遭遇人生变故的朋友早日走出悲伤阴影;需要的时候,我一定与你同在……。
        
         不分国籍民族,愿我所有的朋友在新的一年里,活好每一天,坚持梦想,活出自己。
     
         当然啦还要对家人说几句话:
     
         老公你不要喝太多的酒啦,今年能否学会一项运动?
         Tree呢希望你以疼爱动物的心包容有缺陷的同类,试着学会经常地感恩于他者!
         还有文赫啊你不能继续耍单儿啦……。
         我嘛当务之急是要养好扭伤后遗症,然后一如既往无私无畏成为你们的麻烦和快乐! 
     
         Happy Newyear !
     
     
    December 24

    无神论者的平安夜

     
        昨与多年老友聚会,我那依然不灵便的腿脚成了关切的话题。
     
        我说遍访京城多家有名有姓的医院后,眼下这只脚交给社区医疗站中西杂糅的草莽医生每周三次针灸疗治着,可北医三院骨科专家楼老的话咒语般的粘在耳膜,老是挥之不去:“局部损伤与髌骨软化有啥关系,往膝盖扎针大可不必。”
       中西医各执一词,一个医生一个看法,叫俺怎不茫然啊……。
     
        一小友听我如是叹息,愤然规劝:"或找正规军,或找游击队,门路自可选择,但一经选择就得信它,把一切杂念从大脑彻底清除出去,否则啥高明的治疗也不会奏效,眼下你不啻白受皮肉之苦。"
        不料,其慷慨的陈词和决绝的表情引老友颦蹙,矛头直指人性:“何以如此绝对?”。
        小友挂不住,正色争辩几个回合,差点夺门而去。
     
        我深知老友恐惧为何。
        老友是旅居中国二十好几年的外国人。否定他者的选择需谨慎,涉及价值趋向尤慎言,这是他的底线。对政治、意识形态及其他改头换面的暴力唯恐躲之不及的他,怕是被一年一会的小友身上突然散发出的陌生专断气息吓住了。
        我也知道这位才思敏捷谈锋犀利的小友把自己的强烈主观轰炸似地道出来,全是出于对我的关心之切。
        医术即心术,不信则不灵。小友所言是真理,甚至可说是老生常谈。何以险些搅黄怀旧聚会?   
        答案是:老友对价值绝对化的恐惧使然。老友惧怕非理性和人对人的专横。
     
         相比之下,让我感到切夫之痛的,毋宁说是精神的荒凉,没有绝对信仰的苦涩。因此这个晚上困扰老友的小友之激烈和绝然,反倒让我为之怦然心动。    
         我们如今生活在无信仰的时代,面对许多困惑时,有种隐隐的渴望,能清晰地感觉到心灵对宗教的呼唤。不幸的是我们这代中国人经历了十分彻底的无神论的洗礼,任何尊神也难走进我们被坚果般僵硬的壳儿围包着精神世界。
       
         于是乎,圣诞节亦成了可看可不看的喜剧,这平安夜里该干啥干啥。即使一时兴起跑到教堂如某年,上帝的声音就是不能抵达我干涸的心田。快乐与耶稣基督无关,也不信这世界上有什么救赎。 
          昨晚回给小友发短信:“我明起信针灸医庄严手法,以你庄严决绝之言辞表情施己以暗示。”
     
         无神论者的平安夜,让内心平和幸福的并不是上帝而是朋友们的牵挂和祝福。
         让我感动所以迅速转发给心里惦念的几个好友的短信来自我敬重的新友ZY:
         ---如果今晚你被塞进麻袋里,别惊慌,不是有人拐卖人口,那时我对圣诞老人说:“我需要的礼物就是一个像你这样的好朋友……”
        
        圣诞快乐,我的朋友。
     
       
     
     
       
     
     
    December 12

    生活在别处

     
       不用闹钟睡到自然醒---渴望了多年的梦想一朝成真,快乐每天都是随着上午的暖阳翩然而至。
       这个注定短暂但是显然被祝福而非诅咒的不寻常的日子,该留下一笔白描存照并与朋友分享吧。
     
        每个早晨,慵懒地睁开眼不用看表,用慢镜头的节奏起床。吃过早饭喂过爱犬默默后,手捧飘着浓浓奶香的咖啡拿铁转到书房,迎着斜射进来的阳光打开广播,让新的一天徐缓地走进我的世界。
       这几天听得最多的是韩国的KBS1。嗯,其节目之丰富确实值得赞。小小地球村信息尤其是关于中国与日本的关切也尽被网罗其中,无需回头再听中央广播电台或者NHK。无论时政、讨论节目,还是音乐、文化、对话栏目,那娓娓道来的带有磁性的韩语沁人心脾。
       当我用最舒服的放松姿势倒在躺椅上,爱犬默默不失时机跳将上来,在我身上找个最舒适且能看到我表情的角度趴下,一起进入聆听的状态,一听几个小时,直到被电话铃或者敲门声叫起。
     
        感到踏实的是,脚伤显然有好转之势。
       这些日子老老实实扎着针灸,同时不忘到其他医院找专家求证(北京医院、北医三院、北京中医院),最后算心服口服,配合现在这位潘大夫的治疗,休息并尊旨坚持做恢复性运动。
       康复应指日可待。
     
       最开心的,自然还是有朋友前来探望做伴。
       跟朋友无需见外,我常是乐得被照顾,夸张地饭来张口衣来伸手。像我那有先见之明的网名,和朋友在一起时的心情永远是一路阳光。
       经常是围着餐桌分享美酒美食,然后挪到客厅的沙发上喝茶开侃,从从容容底气十足:咱有的是时间。啊啊。做百万富翁也不过如此吧。想想前些日子约朋友见面闲聊比登天还难。好像随时都有比朋友重要的事情在发生。
      
       最离谱却十分惬意的是,挥霍大把时间没入电视剧里。
       局限的空间里,电视自然成为打发时间的最佳渠道,意想不到的是国内电视剧竟还十分受看。连日下午直至晚9点多,手拿遥控器换频跟着电视连续剧的节奏走,体味着被掌控迷失的快感。下面是让我欲罢不能的连续剧名:
        ---《士兵突击》、《血色浪漫》、《女人心事》。
        还有《大刀》,虽然血腥了点,不知不觉看了多集。剧中演日本鬼子的主角(日本演员)蛮有魅力。
       (断断续续瞥一眼的还有《暗算》《亮剑》。显然都是人气很旺的大制作,当红演员担纲,看点不少。它们还有一个共同项,那就是清一色的抗日战争俄题材。感觉这些片子中的鬼子已经很好地转换为娱乐因素了。)
       不久前安装的数码电视有信息提示,让选择和切换频道方便自如。那个年代、人物和故事好像就在那里等着我走进。
       这些是我首次有头有尾看下来的国产电视连续剧。
     
     
        回头看,书,也读了不少。
        不用早起便也不用强迫自己按钟点睡觉,一口气读它个够,两天一本书。有轻松的,有敏感的,甚至沉重的。无论如何,很多书一直是想读却抽不出整块时间,过了此村怕无此店。
         ---《行走中的玫瑰》(闾秋露薇著 上海文艺出版社)。 评:不加粉饰,共鸣多多。
         《皇太子妃绑架案》(长篇小说。上、下  황태자비납치사건  Kim Jin myong 해냄出版社 韩文)
               评:不无离谱肤浅之嫌,却是了解韩国人对日情结的不错的文本。      
         《暗杀闵妃》(角田房子著 新潮社 日文)      评:肃然起敬的光照并还原历史的作业。拟按此线索扩展阅读。
         《好太王碑与高句丽遗迹》(王健群著,读卖新闻出版社 日文)
               评:揭开东亚三国古代史之谜的钥匙。可惜没耐心读考据的部分。
         《绿色评论》(双月刊  92,93号  绿色评论社 韩文) 
               评:如沐春风。阅读了5年的《绿色评论》时有开辟个网页刊载介绍的冲动,至今未能付诸实行。尚有5卷待读。
     
          书的话题暂打住吧。
     
          这段日子里唯有周末是拿出来与Tree分享和对话的时间:
          上周末Tree第一次带同屋同学到家里住,两整天我主要是挖空心思收拾家和烧菜炖汤,你能想到吗?乌鸡虫草山药汤博得满桌喝彩,Tree站出来说话了:“你炖的汤一直都不错。一汤打遍天下,嗯,可以这么说。”
         听得这个心花怒放啊,我差不多要感谢老天让我扭脚且久治不愈的安排了。
     
          Tree和那个叫做子娟的山东女孩,周五晚进屋就在桌上摆弄着恐龙骨架热切地讨论着什么。周六早晨吃过泡菜炒饭风风火火上街,直至晚上9点半拎着大包小包回来。原来她们逛完美术馆附近的画材商店后,一直泡在三联韬奋书店,打烊时被店员轰出来,挑好的书也没法付款了。她们计划周日晨8点半自然博物馆一开馆就进去画速写(古生物),结果因双双熬夜至凌晨而破产。后来似乎改主意奔建材市场,找她们联手制作的立体造型作品的材料……。
           看她们形影不离嬉笑打闹的情形,不禁让我回忆起我们的大学时代和情同手足的同窗。 
           呵,青春向上的大学生Tree ,是我的骄傲和希望所在。
     
           最后忍不住要说个结论:这才是生活啊。
     
           (注:老公至本周末在欧洲大地忙他的公务,因此我才有大把的独处时间,跟Tree一样留宿女友在家。阿门。)
     
     
    November 30

    语言的外衣

       
        这一个星期都在家里休养。
       半年多前的右踝伤隐隐作痛,自打儿时从没挨过的针灸叫我紧张得手心冒汗。
       即便如此,从天而降的大块闲暇令人心花怒放。白天人家都上班的时间坐在院里晒太阳看爱犬默默奔跑嬉戏,或靠在客厅的沙发上接受邻里亲友前来嘘寒问暖。这感觉好比是欠一屁股债的穷人一夜醒来发现自己成了腰缠万贯的富人!
        遗憾的是,时间这东西跟金钱似的,还真扛不起挥霍,一转眼就要到星期五了。原以为自己将有的是工夫到这个空间逍遥自在,结果今天才有心思进来写几个字。
     
         语言的外衣。
         不假思索写下这几个字,是想到了这些天完全放下了日语。看看中文闲书听听韩语节目,好比脱下一件工作服,换上一身舒适的休闲装,倍感自在轻松。
         这个随兴的比喻勾起了记忆中关于语言的陈年往事。 
        
         大一开学那年坐上赴省城的夜车,我从此掉进诱人的欲罢不能的语言的深渊 。
         在此之前,常自诩为母语--朝鲜语的泳池里数一数二的游泳高手。在伟大的鲁迅、朱自清等文化巨人的召唤下在高考志愿栏里填写清一色的中国语言文学专业时,我渴望海洋,对自己的水性信心十足。
         走进中文系的课堂后,被迫脱下自幼熟稔的母语的温暖外衣,开始不停地试穿向往已久的汉语的新衣。殊不知这是不折不扣的精神历练的开始,通过语言这扇窗口窥探世界含义的漫漫跋涉从此拉开序幕。 
     
         当年一天花十好几个小时跟汉语肉搏的细节我已想不起了,却有人还记着。
         前些日子阔别重逢的同窗室友Y说起我的典故依然是笑得前仰后合:“你再不成名可麻烦了,我这儿屯着素材等着写名人传记赚钱呢。那会儿你汉语说不利索,段子多极了。前两天自个儿在家想起还笑出声来了呢……”。
         在我的诱逼之下,Y抖出了一杆笑话:
         “记得有年冬天一天没见你的影,回宿舍还挺晚。我问:‘干什么去了啊’,你大声说:‘给金粉兰买他妈的药去了’。下铺的宿丰当时就皱眉把头扭过去。她肯定觉得一女孩这么说话不堪入耳。不过我可听明白了,你是想告诉我们:‘我陪金粉兰给她妈妈买药去了’,对不对?有这回事吧?”
          一一枚举不外乎自毁形象,到此打住吧。  
     
         汉语是我换上的第一个语言的外衣。
         回过头来看,一份汗水一分收获,如今驾轻就熟的汉语当然已经不能算是外语,对汉语的热爱和沉迷可谓有增无减。当年却是为只有辛苦不见光明的日子辗转苦闷,蹩脚的汉语怎么用都不是自己的话。逐渐觉得合体自然是多少年以后的事了。
       
          驾驭汉语的困难和面对多彩世界词不达意的痛苦,驱使我在大四那年避重就轻选择了修正人生方向的新的砝码。日语成为我的第二个语言的外衣。
         也许是由于与我的母语之间的天然纽带吧,或者是跟久攻不下的中文有个比较的关系吧,日语让我一下子尝到了事半功倍举重若轻的快感,很快从自卑的煎熬中挺起了腰板。中文科班修炼的理论功底和的还算得去的语言表达,最终在考研中助我力挫数十名日语专业考生,意外地跻身吉大当年录取的四名日本文学硕士生之列。于是,我的职业生涯与日语结下不解之缘,日语成为我安身立命的手段。这一事实迄今往后怕不会改变。
        长年的职场生活中结识的许多诚实、和善、敬业的日本专家、上司、同事是我人生的一笔宝贵财富,其中不乏令我终生受益的良师益友。我不后悔当初的职业选择。
     
         后来适逢中韩建交,我拾起第三个语言的外衣。那便是与我的母语一卵双胞的韩语。
        中国本土的朝鲜族文化和韩半岛尤其与南韩断绝达半个世纪,因此虽属同语种,两边的意识形态、观念乃至基本语汇和修辞习惯已判若天壤。  2000年起,我争取每年抽空踏访朝鲜半岛,耳濡目染南半部的民风民情语音语调,成批购买韩文书籍和音像资料,阶段性地没入韩片韩剧韩文韩语的世界。与韩国沟通之际的语言以及心理障碍逐渐消除。
     
         值得一提的是结识韩国的民间精英,充实了我贫乏的思想资源。80年代韩国民主化运动的火炬仿佛照亮了我身边的黑暗。参与中日韩民间交流,是促使我主动进行文化身份认同、重新梳理价值观的过程。通过这个路径,切实感到自己作为个体正介入区域一体化的历史进程。多了一个韩国或者日本这一参照轴,帮助我在国民国家语境中跳出非此即彼的二元论的陷阱。
         机缘巧合之下拥有的还算地道的中日韩三国语言背景,稳稳地撑起了我的世界观。我应该算是比较幸运的人。
         最近终于明白,人应该学会摆正自己的位置。让我所掌握的中日韩三种语言在不同时间地点场合水乳交融地“你方唱罢我登场”,达到川剧变脸般的出神入化的境界,为不同的精神王国架起自由沟通的桥梁,应是我自勉自强同时自娱自乐的终极目标。
     
         今春开花时节的一次意外扭伤,横跨过两个季度不依不饶追过来,让我停下奔波的脚步,进入多少年未有的蜇眠般的休整期。这,也许是神明的安排?让一个疑似有轻度强迫症的(前同事语)仿佛上了发条似地盲目走动和言说的人,松弛一下周身神经静下来思考,学会倾听,同时把工作语境以外的思绪以及语言拿出来翻晒一下……。
         
         秋收过后的季末因旧伤赋闲在家,偶痛并快乐着。
         对了,忘了说最重要的一句话:
         欢迎你来信来电聊天慰问哦!
     
     
    October 06

    泡汤的寻根之旅,张学友及姜文的太阳

     
           酝酿了一年的出游计划因脚伤付诸东流。 国庆节,不得已在家休养。
        
         “花它十来天,把生于斯长与斯的延边老家边边角角都要走个遍……”
         “带薪假期也已攒足了哦!”
     
         ---曾经放出去的这豪言壮语,被朋友们引用着羡慕了半年。
         岂料扭伤后打过封闭的韧带,到底经不起一夏天天南海北的奔波劳损,9月底被宣告:“陈旧性损伤复发,建议减负静养一个月”。我顿时无语了……。
          相约结伴而行的朋友摇头叹气:“벼른 도끼가 무딘다더니만...어쩜....”
         (译成中文是:“白张罗了不是,虎头蛇尾……”)
     
          10月,我无论如何也没脸在家里打挺儿。
          本人供职6年余的这家机构,正张罗着它十周年的庆典,大小来宾名单,被我列了几百号。如若此时顾着自己闪到一边,实在不仁义,说啥也要趁长假把脚弄好。
          于是硬着头皮带好护脚套,决心好好疗伤。 
          但是,这脚不灵了脑子没坏,到底没法彻底装死。 跑出去听场音乐会、看场电影,忍不住就此慷慨陈词---
     
     
                张学友音乐会现场
     
          10月1日晚,约朋友一起去张学友《好久不见》音乐会北京现场。
          在荧光棒攒动尖叫声四起的丰台体育中心,我和同龄好友仿佛置身局外。我俩是冲着情歌王子的经典老歌去的,结果这位46岁的一线老星锁定少年少女走的是性感路线,在光怪陆离的光电烘托下,扭来扭去展示莫名其妙的无厘头秀。按他的港语--“旧歌(随后马上开口〈经典〉)”也就两三首,原本等他开唱《如果爱》,但实在没耐心了。
          当我们相视会心起身走出体育场时,身后升起了那首“初吻”的旋律……。
     
          平常与吸引眼球的勾当无缘的我们,听不惯别人改头换面吆喝也正常,这号人本就不该来凑此热闹。
          其实呢,进取的学友鬼力长盛不衰或许是相当值得推崇的事吧。怪就要怪自己对流行因素没感觉:跟不上时代了啊,上了年纪啊。
         
          后来转到香格里拉附近的咖啡馆小坐,品着钟爱的喜力瓶啤,与朋友叙谈。有一搭无一搭地说说过去的人和事,小翅膀硬起来的女儿们,还有我们其实不无陶醉的奔走的日常。
          这家上岛店的怀旧韵味的灯光、色彩、装潢极契合当晚的心情。零点后穿过半个北京城打道回府的时候,心下安祥平和,跟时代脱节的沮丧感不复存在。
     
     
                          姜文的《太阳照样升起》
     
          昏天暗地睡两天后,还是不顾脚痛走到影院给姜导投票去了。(此义举被嗤为不可理喻) 结果又是重蹈覆辙--大失所望。
          对这位同龄人的期望值高,所受到的打击也就更沉重。
          
          这部难产多年且被其自诩为“带劲”的片子,用一句话概括就是:雄性荷尔蒙过剩的姜导自娱自乐之作!
          音乐、色彩、视觉符号和意象的盛宴,掩饰不了长不大的一压抑男人自恋癖式想象的空洞无聊。
     
          看周韵一直投入地装疯卖傻,跟房祖名俩乐此不疲砸东西玩儿,差点说出俺失陪了。抛弃年轻母亲还让其痴迷走火入魔的男人有个苏联名意味着啥,千里寻夫寻到唠唠叨叨的苏联大妈那儿又是咋回事?东一棒子西一榔头的叙事没有内在关联;看似没有过去亦没未来的几个男人,咋看都是姜导自己的分身抑或是臆想。
     
          结未处比桃太郎还离奇的趟在铁道中间绚烂花丛里的孩子,毫无预兆地跳将出来的太阳,反复回荡的“阿廖莎--别害怕---他笑了,就没事了”,分割开来回味都是美丽凄婉----但放到影片结构里有足够的“脑残”之嫌疑。
          连我们这茬人都觉得不知所云,姜导莫非是铁了心耍全中国人民玩?
       
          影片中唯一出彩的是梁秋生演的混血酷男“摸屁股事件”始末。
          这位帅哥富有磁性的一曲《美丽的桫椤河》让揉面团的女人们齐刷刷朝天举起性感的大腿,嫉妒不已的丑女屡屡致电骚扰;好莱坞打拼过来的陈冲挤出白大褂下撩人的S曲线动起真格儿娇喘的脸与酷哥木然的毛孔放大的面颊出现在同一画面,可说是人性遭禁锢的那个年代的最好的写照。
          在此总算瞥到了《鬼子来了》中肉搏人性的鬼才姜文的手笔,可惜不错的故事和人物却被结构杀掉了……。
     
          讲述同一年代的《阳光灿烂的日子》,虽说同样反叛却依然有爱纯净,此《太阳照样升起》却是荒诞灰暗嘲弄一切,把希望打碎给人看。不停地摔东西时两眼放光的周韵,从头到尾就知道耍枪打落飞鸟(结果把老婆送进房祖名怀里的)姜导自演的老唐是其象征。  
          片中没日没夜挖树下鹅卵石的疯女子,相信把这些巨蛋似的石头都捡出来树就正过来了。 沉溺于《太阳》片里私人化语境的姜文,是否也认为只有搬开扭曲的记忆自我救赎过了,才能伸开双臂站到太阳下肩起这个时代? 
          
           今天这高大又渺小的姜导让我对同代电影人失去念想。
           算了算了,老指着某人讲述自己想听的故事算咋回事,有种自己讲啊……。
            
            
    September 23

    Tree的大学生活侧记(1)

     
         下午1时许。廊坊的东方大学城。
       
         北京服装学院五层红砖楼宿舍,飘出了身着松夸夸的长衫长裙,单手提着黑色小双肩背的一身影。
         向其挥挥手,视若不见,自顾低头沿着栅栏踱步。快走到跟前时,抬眼打了若有若无的招呼,迅速钻进停在路边的车里。
         马上明白,此Tree不愿让往来同学瞧见自己被探视的场面。
        
         接下来的对话,也是低调的,且程式化:
         M  “给你带了些月饼、水果,跟室友们一起吃吧。”
         T  “这么多?不要水果。哦这月饼盒有用。说好:我只拿书包里装得下的这些。” 
         M  “想吃什么?咱找家饭馆。”
         T  “没有想吃的。最好快一点。还有好多事要做……”
     
         开出西校门来到《大成驴肉》,点了黄花一锅鲜、冰糖山药和小鸡炖蘑菇。
        下单等菜的功夫,终算盼来Tree主动“汇报思想”。
     
        ---没有数学的世界简直太美啦。
        ---专业课挺有意思,接连两整天全是绘画。作业也好玩,明天要交7张植物图案设计。想敷衍呢很简单,可毕竟是有趣的题啊,不舍得对付。认真就费时间。
        ---复试后分班,英语分在了A班(分为A、B、C三个等级)。嗯……英语算我的长项,尽量向普通高校看齐吧。
        ---课业不轻,晚上还要玩玩手写板,写写字。所以要比人家累啊。
             
          顺便说一下。
          Tree把陪她度过三年高中的笔记本电脑带到大学。手写板是托友人从日本带过来的绘图硬件--价值不菲的升学礼物。Tree曾透露这个工具让她着迷,用它画的图被某漫画杂志采用。
         此外,她还被某老牌教育刊物的编辑朋友抓去充当栏目的计件小编。对这人生第一份“工作”她应该是很重视的,当得知文字稿和插图统统过关时,她定是心花怒放。据我所知目前已完成两期栏目稿。
     
          无论画还是写,Tree本人都是乐此不疲。而为了爱好,她正在付出代价。同屋室友看偶像剧的时候,离电视最近的她,往往带着耳机做自己的事。点灯(手电)熬油到晚十二点后更是家常便饭。
          这状态,既欣慰,又心疼。
     
         临别时,我叮咛:“别太折腾了,身体比啥都重要,要保证睡眠。”
         Tree回道:“你就别担心啦”,随即正色说道:“以后不要到学校来了,还提着吃的。这让外地同学多难受”。
         我辨白:“这不赶上中秋节了吗”,她反问:“你们上大学时中秋节了父母来送吃的了么?”
       
         小家伙进而叮嘱:“往后最好不要打宿舍电话,有事打我手机。家住北京的还嘘寒问暖,外地同学怎么过?!”
         呵哈-- 我被呛住了……
         Tree的宿舍电话,还是与之有稿约的那位朋友最近告诉我的。当时她还责备我何以如此粗心,连女儿宿舍电话号码都不知道?岂不知人家是成心不告诉的啊。
     
         驱车50公里赶去看望,不见女儿惊喜、撒娇,反遭如是正色规劝,于情于面子都说不过去,当时真有点挂不住了。不过,回头想,心下甚欣慰:Tree心里有别人,难得!!
     
         孩子如同一棵树。
         只要根牢牢地扎在大地,有一点阳光和水分,她就能拔高,风雨的历练使之愈加强健。谁见过温室里的羸弱树苗,迎风傲雪挺立于广袤的原野?!
     
         十八岁,该是放手的时候了……。
     
         
     
    September 12

    家政婦あれこれ

     
    泊り込み、あるいは日通いで、掃除洗濯に子どもの世話などをしてくれる職種の方を、中国語では「アーイー(阿夷)」と呼びます。業務内容からすると、ずばり家政婦。なり手が女性ですので、「おばさん」という意味の「アーイー」が転じて、お手伝いさんの俗称として定着しているわけですが、一般市民の家庭でも、気軽にお手伝いさんの世話になれるのは、中国と日本の大きな違いのようです。
     
    中国では、「男女共同参画」と取り立てて言うまでもなく、女性も男性同様に生涯働くのが常識で、基本的には「専業主婦」なる選択肢が存在しませんので、子どもが生まれたり、病人や高年者の介護が必要になったりする場合、まず「お金による解決」、つまりアーイーさんを雇うことを考えます。2006年現在、北京の家政婦派遣会社は3000社以上、登録家政婦は26万人に上り、市の中心部では1割以上の家庭が家政婦の世話になっているというデータがあります(北京家政服務協会)。いまやアーイーさんなくして日常が成り立たない市民も多く、わたくし自身、その一人なのです。
     
    我が家が雇った最初のアーイーさんは、四川省出身の徐さん(当時22歳)。小学校の臨時教師を不当にクビになって家出し、北京に出稼ぎにやってきたものの、近眼が理由で接客係の面接に何度も落ちて落ち込んでいる彼女と後輩らの合同宿舎で知り合って、同情半分で家に迎え入れたのが娘3歳のころでした。家事はお世辞にも上手と言えないけど、娘に絵本を読み聞かせる声や表情が素晴らしくて、彼女が近眼のせいで新品の褐色革靴を黒色に化けさせたり、激辛の四川料理で夫や娘に悲鳴を上げさせたりしても、クビにはできませんでした。月給日に、わずかなお金の入った封筒を渡しながら、律儀に彼氏への仕送りを頼んでいたことも、忘れられません。
    2年ほどたったころ、徐さんは病気がちになり、やがて彼氏と結婚すると言って田舎に帰りました。まもなくして広東省の工場に彼氏と一緒に就職したという連絡を受けひと安心していましたら、「…苦しんでいます。姉ちゃんたちと平和に暮らしていた日々に戻りたいです」という手紙が、1年後に届きました。悲しかったけど、心を鬼にして呼び戻さなかった彼女が、今どこでどんな人生を歩んでいるだろうかと、時々、気になっています。
     
    娘が小学校3年生のころ迎えた燕ちゃん(当時21歳)は、中卒だけどいつもハキハキしている東北っ子で、隣家のお手伝いさんだったころから娘の仲良しでした。「燕ちゃんがお婆ちゃんにイジメられているの。うちに来てもらおうよ」と娘に懇願され、マンションを引っ越すことになった時に声を掛けたら、燕ちゃんが大喜びして「無給お手伝い」を宣言。私たちが住居と食事を提供するのに引き換えて、燕ちゃんは外でバイトしながら短大課程を受講し、家に帰ったら家事の手伝いや娘の世話をしてもらうという約束でした。
    以来2、3年もの間、燕ちゃんの献身的な動きで助かったことは言うまでもありませんが、短大受講生のアーイーさんの同居による賑わいと乱雑ぶりは、史上空前のものでした。夫が出張のしっ放しの時期だったからやり過ごせたのだと苦笑いながらも、燕ちゃんから元気をもらって笑い声が絶えなかった日々が、懐かしく思われます。
    後に燕ちゃんはバイト先の台湾系洋菓子チェーン店のオーナーのおめがねに適って正社員となり、とうとう新店舗の店長に昇任。ある日、大きなケーキを下げて帰宅して鄭重に礼を言い、自分のアパートに引っ越して行きました。まさに「努力は運命を変えられる」といった教訓談の主人公です。
     
    近年世話になっている姜さん(30代中盤)は、安徽省出身の家政業パートタイマー。朝、鍵を預けて出勤すると、半日かけて家事をし終えた後、ノブを押してドアを閉めて帰っていただきます。もはや満3年の付き合いですが、いまや私にとっては、もう一人の家族とも言えるほど大切な存在です。掃除洗濯のプロの家政婦を求めていくつもの派遣業者に当たって失望し切ったころ、職場の同僚に紹介してくれた姜さんは、仕事ぶりといい、人柄といい、世にも稀な宝石を見るような感銘を私に与えてくれている方なんです。
    退勤後帰宅して、見違えるほどきれいになった家じゅうを見回していると、彼女の脳に仕組まれたプログラムが、建物をいくつものモジュールに分けてクリアしてくれたのではという幻覚が起こりそうです。しかし彼女、実は学校に行ったことがなくて、読み書きができない「文盲」なのです。にもかかわらず各種洗剤、柔和剤や洗濯機のボタン配列等を色や画像として記憶し、使い分けられるのは、奇跡としかいい様がありません。
    さりげなくシーツ、蒲団カバーを取り替えてくれたり、仕上げに愛犬モモちゃんを風呂に入れてくれる心遣いは、もはや家族そのものです。勤務時間を延長しがちながら、律儀に定額だけ受け取って追加支払いを断固として拒否する頑なさや、風や雨の日にはタクシー代を渡そうとする私の好意を3年間ずっと断りつづけた根気強さは、愛おしく痛ましい限りで、そのお返しの方法に悩まされています。
    彼女の探し物の名人ぶりも特筆に価します。「ネックレスの宝石が見つからないの。私の月給の三分の一もするヤツだから、今日の仕事はまずは捜しものでお願いします」と頼んで出勤したことを友達に話したら、「わざわざ値段をいうなんて、<ミツカラナイ>かもしれんぞ」と意味ありな口調。しかし夕方、家のドアを開けたら、宝石はちゃんと居間のテーブルの上で光っていました。家政婦による財貨の盗みなど殺伐な話題の方が目立つ世の中で、彼女はまさに宝石より貴重な存在なのです。
     
    ちなみに、私が姜さんに支払う報酬は、一回あたり50元/4時間。円換算すると時給2百円未満です。アーイーの時給5~15元、パートタイマーの時給816元といわれる相場の中クラス。北京市の昨年度の一人当たり月平均賃金3008元からすると、明らかに安い賃金水準です。なお気がかりなのは、このわずかな手取り時給に、社会保険の雇い主負担分の社会保険料も含められていると解釈されている点です。大卒新米、定年退職者をいわず、だれもが家政婦が雇えるという現実の裏には、彼女たちの低い賃金および保障の問題が横たわっているのです。
     
    廉価な賃金で家政業になだれ込む姜さんのような農村女性たちあってはじめて、子育てや家事の負担から自由になり、仕事に没頭できた自分たちの現在があることを忘れず、せめて直接関わりをもったおひとりの将来のために、何らかの寄与をしなくてはならないという、感謝と反省でこの文を締めくくります。 
     
    August 14

    示女十八岁生日书

     

         今天远走三江源的女儿平安回来。被青藏高原的烈阳暴晒十天的皮肤,竟依然健康白皙。黑色紧身背心下随意得体的迷彩裤,显得她十二分的野性,却仍不矢女性的含蓄和妩媚。

         见到她的瞬间,忍不住一把将其揽入怀里。

         这些日子久没打理的家,东一堆书籍西一摞杂物,女儿的从天而降使七零八落的房间顿时濯濯生辉。

         哦,我拿什么献给你啊我的女儿。最近快乐地陷入永无止境的工作里的妈妈,只有中午赶回去叫几份你喜欢的日餐的份儿,只顾望着你心花怒放。

      

         上月出段长差回来,听人说老公这篇示女十八岁生日书,在同事朋友圈里成为话题。据说有人加上编者按广为散发,让其信箱一时爆满。而直到某天有人夹着打印稿找到家里交流来了,我才得以一瞥老公大作。

     

          成日不着家的专制警察形象和既煽情又凝重的文字形成强烈反差。对其居高临下纵横调侃甚至不惜把老婆带进去做佐料的做法,我甚不以为然。怎奈自己这段精力透支文思枯竭笔头也秃了,拿不出与之相抗衡的文字。今索性将其转贴在此,一来添点热闹,二来提醒自己别忘了哪天也献出我的致女儿十八岁书。

     

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    亲爱的女儿: 

    2007531日,是你十八岁的生日。十八岁,蓓蕾绽放的年龄!十八岁,如诗如画的季节!十八岁,阳光灿烂的日子!青春年华,灵动岁月。笑一笑,风清云霁;叫一叫,海阔天高;跳一跳,星星都会滑落怀抱!像小孩子企盼新年,我们期待着这一天,可欣喜中,也有一丝淡淡的伤感——从今天起,我们这个三口之家(如果不算汪汪叫的默默),少了一个天真、活泼、可爱的孩子,多了一个需要不断成熟、持重、负责的年轻国民。

    1989年躁动的今天,你发出生命的第一声啼哭,爸爸给你取了乳名叫闹闹。当时,爸爸、妈妈也还像玩闹的孩子,是你的到来让我们速成,而现在则把整个青春交给你了。孩子,只要你快乐,我们不遗憾。

    树有根,水有源,人不能忘本。爸爸的祖上为满洲正蓝旗,十七世纪中叶清兵起事时,留守东北老家,未曾“从龙入关”,呵呵,没什么文治武功。我的祖父早年是奉天城里有些名气的商人,办过油脂化工和面粉厂,开过旅店,在近郊还有三面山的果园,惜三十几岁就过世了。你的爷爷半生飘零、坎坷,惟音乐和子女是他的人生支撑,至今仍沉溺在萨克斯风里,不知老之将至。爸爸是家族第一个入关的人,1987年参加工作进入公安部,1998年转调海关总署,二十年刑警生涯,多半时间不着家,算不上合格的丈夫、爸爸。

    妈妈的祖上系鸭绿江对面的朝鲜族,据说是庆州郡的皇族后裔(?呵呵,血统挺高贵的)。倭人入侵,她的祖父因参与一个著名的暗杀行动,被追捕辗转至吉林延边落脚。虎父无犬女,妈妈的两个姑姑十几岁就赴抗日前线,一在战场失踪,另一被俘遭日寇枪杀,都在女孩的花季。天妒红颜,靓丽的花儿怎堪过早凋谢?!金贞吉烈士的画像和遗物至今供奉在国家革命博物馆,画像是以你初中时的妈妈为模本绘制的。你外公生前是全国政协的常委,诗人和民俗学者,未满花甲就溘然弃世了,留下他的作品活在朝鲜族中学语文课本里。你妈妈嘛,呵呵,欲语难说——她似乎是一个永远沉醉在花季的女人,用太多的单纯、任性和麻烦无私无畏、无休无止地为这个家庭奉献生动的幸福与快乐。

    鱼在水,龙在天,野花开深山。还记得那首“野花”吗?爸爸特意写给你的——不幸为文明离弃,还是侥幸挣脱文明的藩篱?漫山遍野的野花啊,静静地喧闹在世外异隅。没人欣赏和培育,因而也无需打扮和感激,只要有阳光和水,生命就会绽放自由的微笑和自然的美丽。

    因为父母经意或不经意的疏忽,你幸运也许不幸地成为这样一朵野花。因为自愧失职以及另类的教育观,我们从未将自己不堪的人生负重强加给女儿,要求她鱼跃龙门,一朝成凤。健康有笑容的孩子最美好,是上天对父母的恩赐与嘉勉,额外的期许难免有些贪心。你的现在,应该说主要是你自己选择的结果;你的未来,主要的还是要靠你自己去选择。我们会支持,尊重你的选择。再长寿、再强势的父母也不可能而且没理由占据子女的整个人生,无论他们怎样忧虑期盼,毕竟不能代替孩子去学习、工作和生活。天道有常,是花是草自有缘由定数。你的人生,只属于你自己。如果可能,我们宁愿做一个山外来客,不期地遭遇这片绚丽,惊诧过后,屏息静静地退出,以缄默表现对自然、生命和个性最理智的尊重。

    人是社会的生物,依托社会以生活,回馈社会以付出。活着,需要有价值的自我,同时不能漠视他人的价值。人非草木,终不能薄情寡义。可以有野花般的个性,但无法像野花一样的生存。父母会谅解孩子的过错,社会则要求每个成员遵循法律、规则和道德。成人的社会,说到底是关系、责任和利益的共同体。

    寄寓社会,就得与人相处。面对的无非两种,好的和不好的,喜欢的和不喜欢的。待人以诚以情,关键在于感恩与包容——对于爱你和你所爱的人,要知道珍惜和感恩;对于不喜欢你和你不喜欢的人,要学会包容和怜悯。与人玫瑰,手有余香;仇恨是柄双刃剑,双方都会感受创痛。

    知其所不能,而后能之,是能也。这是因为:一己之外皆为客观,他人、他事、他物,相对主体而言,都是独立的客观存在。所谓客观,是不以人的主观意志为转移,不会按照想像的样子去改变,所能改变的只有我们自己。通过自己的改变去影响客观,至于受不受影响发生预期的变化是它的事情,因为它的名字叫客观。

    就个体来说,一个人的成功需要具备“四商”,即智商、情商、行商和逆商。逆商是爸爸的“发明”,系指人的意志品质,克服困难、承受挫折的能力。君子不可以不弘毅,守死善道,任重道远。前三商再高,没有顽强的毅力,持之以恒的精神,通常是不能成就大业的。即便小成,吃不得一点苦,遇硬就弯,也是不行的。正所谓宝剑锋从磨砺出,梅花香自苦寒来。

    人生短不了一些抉择,每每做决定时一要全面,二要客观,三要前瞻。全面,就是尽可能从更多的角度看问题,不可只见树木,不见森林;客观,就是务求自己的认识立足实际,符合规律,不能主观臆断;前瞻,就是深谋远虑,放眼未来,不要鼠目寸光。当然,取法乎上,仅得其中,生活本来充满缺憾。错了也不要紧,无须驻足哀叹。频频顾盼的人,走不快,也走不远。最大的悲哀,是不能承受悲哀。向前走,才会有出路。

    个性和创新是事物存在的基础,否则多你不多,少你不少,迟早会被代替。但谁也不会活在真空里,你也不再是自由散漫的野花。为人处事,有规矩要依照规矩,无规矩应遵循惯例,推陈出新需合时宜。从众固不可取,风摧秀木亦足堪虑。

    事情的结果通常取决于实力和条件,但目标和程序亦至关重要。目标明确可以少走弯路,程序合理能够产生效率。

    人应该是美的——内在以及外表。看外表用眼,观内在以心。相貌外表多承袭自父母、宗族,内在修为主要靠后天的学习、进取。春光苦短,韶华易逝,随着年龄的增长,内在的东西才是耐久的看点。

    以上话题或嫌臃赘,但谁让咱是爸爸呢?呵呵,一般人我不告诉,一般人也不会告诉你。

    古有成人典礼,惜已崩坏,代之以文,可乎?

    女儿,生日快乐!呵呵  

    ——永远爱你的老爸

     
    July 17

    加班综合症对策

     
          连日在封闭的办公楼度过平均12小时以上,腰酸背痛事小,8小时内外界限变模糊头脑麻木,不能不视为洪水猛兽。赶紧忙里偷闲到这里留几个字,题名:加班综合症对策。意即走走神透透气,有助于缓解症状。
     
         无奈这两个月来中国按日式程序筹备一个亦中亦日的国际会议,且是往人地两生的西部内陆城市远程遥控,电话邮件应接不暇,需要理出的方方面面的头绪实在太多,不知不觉间这加班基本慢性化了。
     
         暂且跳出来以旁观者的视线看,日本的思维定式和计划不如变化快的中国国情时时擦出火花,作为代表这个机构的联络协调人,我的角色也瞬息万变着:站在中方和日方的中间,时而是实现机构指令的冲锋队员,时而是大事化小小事化了的消防队员。几乎天天面对层出不穷的两难的问题,用尽量委婉语气的日语温和婉转地陈述中方不加掩饰的立场,用力图字正腔圆的标准话(这有点困难,因为受母语和东北话的双重干扰)转达日方揉不得沙子的细节要求。
        (……如是写下来怎么有股危险的气味?在这空间虽然没有挨板转之虞,却有足够的“里外不是人”之嫌疑是不是?…)
     
         眼下开会在即,主旨演讲人还在走政府程序报批中,安排发言的某市长忽告缺席,波澜壮阔。今又遇某省官员因故集体取消行程。每个变化牵动日方精心编制的缜密计划之齿轮哗啦啦的空转起来。
         每每这些时刻,我的搭档会像挑起长矛冲向风车的唐吉可德,付出巨大的脑力体力,想方设法修补那被搅得七零八落的计划,让它看上去始终完美,真是可歌可泣可敬可怜。我是这周密的非现实计划的策划班子成员和主要执行者,不到大会落下帷幕中日双方一百五十号人马一批批踏上各自的归途,怕是没有忙完的时候了。
     
         这夜深人静时分感到惭愧的是,自己还是多年咬文嚼字为生的笔译人员楚身呢,如今这资料汇编早早就委托出去给专业人士翻译,人家交上来了活儿还顾不上瞥一眼译稿,埋头掰撤VIP名单座次啊、某某场会见/仪式的程序啊、背景板啊、餐饮及参观点的内容/衔接啊、机票住宿数量总控制啊等等。
         立场不同了,主次概念颠倒过来了---过去视译文如生命精益求精,现在则认为无大错即可。特别是如愿请到国内最好的两位同传前辈,心下便甚踏实,感觉文稿译文质量的高低与会议成败的关系最为遥远。
         这话被跻身专业人士之列的可敬可畏的后辈们瞧见了可还了得,要遭怎样的口诛笔伐呢。
     
         看待口译的态度亦有所变化:去年为止年复一年硬撑着既做台下会务又做会议同传,那水深火热的日子不堪回首。心想自己怎会做那种眉毛胡子一把抓的蠢事?
         把这句话敲下来,转又思忱:不想吃苦了,这岂不是典型的意志衰退的表征?
     
         环境、际遇、生活目标等等不停地塑造和改变着每一个人。这些年来置身其中的职场生活也无法不给我打上某种烙印。对此不无惶惑,但也安然。
         如今这年代,没个苦恼了和怀疑的,能是正常人吗。
     
        下面这段子,让一日本同事感慨不已。拷贝在此,以示同感:
     
         老革命一直惦记着他们为之献身的事业

    江姐来电:国民党推翻了么? 答:被阿扁推翻了,大家都成了好朋友。 
    董存瑞来电:劳动人民还当牛做马么? 答:都下岗了,不劳动了。
     
    红色娘子军吴琼花来电:姐妹们都翻身得解放了吧? 答:思想解放了,都当小姐了。

    杨子荣来电:土匪都剿灭了吧? 答:都当公安了。
    杨白劳来电:地主们都打倒了么? 答:都入党了。 
    马克思来电:资本家都消灭了么? 答:都进中央了。
     

    July 11

    等待记忆回来

      
         小狗的记忆能追溯到多久?
     
         上月回到离开十个月的双花园,爱犬默默对这个曾经熟稔的环境变生疏了。熟人跟她亲热地打招呼,她怯生生的夹起尾巴找墙根儿,遛弯时老是三步一回头,看主人是不是跟在身后。
     
         雪橇犬“子规”和松狮“武田”,只要远远地瞧见就已从喉咙里发出恹恹的哀鸣。对京巴、蝴蝶、博美这类小型犬,则见了便竖起背部的鬃毛不停地哼哼着威胁,摆出攻击的架势。一旦遭到生猛反击,飞快地往家逃窜。举家搬过来如今已一个多月了,默默仍是敞开了大门给她自由也不肯独自出去,不离不舍蹲坐注视主人的一举手一投足。
     
         想想去年的情景,真是匪夷所思。
         每当早上最后一个上班的我争分夺秒赶着出门的时候,默默这个机灵鬼经常溜着门缝一个鱼跃窜出去,任凭我怎样追打威逼和请求利诱,就是躲着家门远远地跑开不肯回家,害得我一大人一大早大汗淋漓跑圈后光荣迟到,接受十来个日本同事的注目礼。
       
          现满两岁的雌犬默默,出落得优雅美丽,温和娴静。
         一身蓬松金黄的长毛柔顺且有光泽,让路过的爱犬族忍不住伸手摸一摸。家人更是对她疼爱有加。当默默在午后的暖阳下半睁着她那极其人性化的丹凤眼若有所思地打量人的时候,我们每个人都要抓狂!
         Tree呼天抢地的台词是:默默啊你怎么敢如此漂亮!
         bay theway,我家默默(据原主人说)是混血松狮与京巴的作品。
     
         变得十分恋家不再造家人反的默默,给我们带来了从未有过的幸福感。用一句失礼的话说,她终于有点像宠物了。但是想到白天她独自守家时的郁闷,心下不安。
         默默要多久才能记起这大院里一草一木的气味,忆起从前天天追闹疯玩的伙伴们呢?
     
         月初从东北回京的Tree,从7日起到上苑村的飞地艺术坊重新拿起画笔,声称周末也无需等她。
         想想那离世独立的石头城堡,对Tree是由衷地放心甚至羡慕。
         现在唯一揪心的就是默默了。。。
         
          但愿小狗的记忆赶快回来。左邻右舍还有狗伴等着你彻底回来呢。
         你会快乐起来,默默。
        
         *单位主办个会,筹备工作千头万绪,按日本方式循序渐进各个击破。琐事多得你进办公室就没工夫想别的。这天关机前突然想默默一天没见人影,心头一酸。 遂写下这个文字。